2011年8月30日火曜日

オーディションの夏〜1984年


3年間続けていたバンドは活動を停止し、わずかながらの音楽仕事をしながら学校に通っていたある日、大学の就職事務室から呼び出しを受けました。

担当者「君は卒業した後の進路はどうするんだ?」

中野「音楽をやろうかと思っています。」

担当者「ああそう、ミュージシャンね。もう、帰っていいよ。」

中野「…。」

なんていうやりとりもありましたが、自分に将来に関する明確なビジョンや自信があったわけではありません。ただ、何となく就職活動をするということには全く実感が持てないでいたのです。その一方、プロのミュージシャンとしてお金を稼ぐということがどういうことなのかも、理解できていなかったように思います。実家が東京にあり、学生という身分に思いっきり甘えていたんでしょうね。

その後、少しずつではありますが、業界の知り合いが増えていきます。その頃参加していた尼崎勝司さんのバンドは、音楽や活動自体はジャズ・フュージョン系ではありましたが、ほとんどのメンバーがポップス系のアーティストのライブ・サポートを並行していたようです。(KANさんのバンドのドラム=清水淳さんもこのバンドで出会いました)

84年の夏に、このバンドのキーボードの方から、あるアーティストがギタリストを探している、という情報を聞きました。

「オーディションがあるらしい。事務所に連絡してみたら?」「吉川晃司みたいなアーティストらしいよ。」

とのこと。早速、マネージャーの方に連絡し、渋谷にある東武ホテルのコーヒーショップでオーディション用の資料を頂いてきました。アーティストの名前は「大江千里」君。吉川さんのことは、その頃はまだ知りませんでした。

オーディション当日の事は結構覚えています。もともと小心者でライブでもレコーディングでも緊張していまう質なのですが、何故かこのオーディションの時は全く緊張しませんでした。おそらく、落ちる確率の方が高いことが、容易に想像できたからなのではないかと思うんですけど。(後で聴いた話では30人位の人が受けていたそうです)

自分の順番が来てスタジオに入るとき、直前に演奏していたギタリストは顔見知りでした。「ああ、あいつも受けてるんだ…」なんて思ったことを覚えています。演奏曲は2曲。アップテンポでソロがある曲(たそがれに背を向けて)と静かめのミディアム・ナンバー(三人目のパートナー)。その後、何度か受けた他のオーディションも同じようなパターンが多かったような気がします。

その日の夜。おそるおそる、マネージャー氏に電話を掛けます。ひと言、「一緒にやろう!」と言われました。その時の感想は、

「ヤッター!」

みたいな感じではあまりなくて、

「あらま、受かっちゃった。」

みたいな感じでした。何ででしょう?イヤ、嬉しかったんですけど。

このことがきっかけで、長く音楽の仕事を続けていけるようになったことは間違いありません。もし、「ハングライジ」に参加していなかったら、尼崎さんのバンドに誘われていなかったら、このオーディションに落ちていたら…。

その後、いろいろな失敗をしながらですけど、プロとしてさまざまな事を学んでいくことになります。

続きはまた今度…。

2011年8月25日木曜日

ビートルズと共に


今回から時々、自分が影響を受けたアーティストや作品について書いてみたいと思います。

きっかけは全く覚えていません。何故か、ビートルズ好きな同級生にカセットテープを託し、録音して貰ったのが初期のベスト盤である「Oldies」というタイトルのアルバム。ラジカセはまだこの時代には無く、自宅にあった縦長のカセット・レコーダーから流れてきたヒット曲の数々=「She Loves You」、「Can’t Buy Me Love」、「I Feel Fine」などに衝撃を受けました。多分1971年、洋楽やロックなど全く知らなかった中学2年の夏休み前だったと思います。ビートルズ自身はとっくに解散していたのですけど…。

一体どのくらい繰り返し聴いたでしょうか。渡したテープが60分テープだったので、余ったスペースには「Let It Be」のA面だけをダビングしてくれていましたが、初期とか後期なんて全然知りませんでしたから、違和感なく続けて聴いてました。リスナーとしての経験値が少ないこともあるのでしょうが、若い頃に繰り返し聴いた音楽は曲順まで含めて体に染みついているような気がします。なので、僕の中では「抱きしめたい」のエンディングの余韻が終わると、(カセットの曲順である)「Two Of Us」の冒頭のジョンの語り「I Dig A Pygmy by Chales Howtrey・・・」が頭の中で鳴ってしまいます。そんな理由もあって、今でもiPodでシャッフルして聴くなんてことはまず、ありません。

その後、親にねだって買って貰ったアルバムが「Abbey Road」とシングル集「Hey Jude」。あまりに繰り返し聞くのでうるさかったのでしょう、すぐにヘッドホンも買ってくれました。(レコード・プレーヤーはリビングにしか無かったのです)


それから、1年間ほどはビートルズの全曲を聴くことが目標になりました。レコードを買い揃え、友達にテープのダビングをしてもらい何とか集めましたが、 CDの時代とは違い、やっかいな「アメリカ編集盤」もあったので大変でしたけどね。 全曲をカタカナ英語で歌えるほど、聴き狂いました。

関連の図書も沢山読みましたが、大人になってから1990年に発売された「ビートルズ・レコーディング・セッション」はインパクトありました。それまで謎だったビートルズの作品がどのように録音されていたかが初めて明かされていたからです。もう既に自分でもレコーディングの現場にいましから、そのクリエイティビティの高さに改めて圧倒されましたね。


でも、何故か自分でギターを手にとって演奏してみようとは思いませんでした。理由は特にないんですけど。ギターを弾き始めるのはもう少し後になります。ビートルズの作品をおそらく一生聴き続けていくんでしょうし、それは今でもとても楽しいことなのです。

2011年8月22日月曜日

快適なオーディオ環境、うれしー!


ここ数日は涼しくて、仕事をするには助かってます。ですが、先週までの猛暑には参りましたね。家のiMac27インチはスゴイ熱を発するので、パソコン仕事をしていると、顔に熱風が掛かるような気がして余計にボーッとします。

音楽を聴くのにも今まではiTunesを使用していたので、いつもパソコンの電源を入れたままにしていたのですが、この夏からは、節電の意味も含めてiPodで聴くようにしていました。僕が使っていたのはiPod nano 4Gという16GBの製品。外出時や車での移動時は全く問題無いのですが、家で資料用として使うにはやや容量不足。以前使っていた 8GBのiPod nano 2G(ヘッドホン端子は故障)とか、iPhoneとかに分散して資料を入れていたのですが、結局どれに何が入っているかわからなくなってしまったり、必要な音源を聴くためにには結局、パソコンを立ち上げなければならなくなってしまっていました。

で、iPod Classicを購入してしまいました。160GBも容量があるので、ほぼ全ての音源をこちらに入れておけるようになりました。ストレスが無くなって快適です!!9月に新しいモデルの発売が噂されていて、SDDタイプとかが発売されてしまうかもしれませんが、大容量タイプは販売が終了してしまう可能性もあったので、つい。


ケーブルもいろいろテストしてみた結果、現状では純正の「コンポジットAVケーブル」というヤツでオーディオ・インターフェイスに接続する方法が最も好きなサウンドでした。ドック経由だとリモコンが使えて便利なんですけど、少し音がこもるような気がします。

スピーカーは以前はBOSEの「Micro Music Monitor」という製品を使っていたのですが、今ではGENELECの「8020B」というスピーカーをメインにしています。我が家は防音とかは特にしていないので、小さい音量でワイドレンジなスピーカーが欲しかったからです。


でも、実はこれ見た目のデザインだけで選んでしまいました。モニタースピーカーって黒い地味な製品がほとんどなのですが、真っ白なこのスピーカー、とても気に入ってます。

環境がよくなると、音楽を聴くことが更に楽しくなりますね。

2011年8月18日木曜日

ギタリストのひよこ

今、過去の手帳を見ながら書いています。昔のことを思い出しながらブログを書いていると、あやふやだったさまざまな記憶が甦ってきます。ブログっていろいろな事を整理するのにも役に立つんですね〜。いや、付き合ってもらちゃって、スミマセンです。

今回は、プロとしての仕事を始めた頃のことを書いてみたいと思います。

初めてギャラを頂いて演奏したのは1982年のことでした。それまでもバンドでのライブでいくらかのお金を貰ったことはありましたし、パーティーなどに呼ばれて演奏すると、ちょっとした小遣い稼ぎにはなりましましたが、これはプロとしての仕事ではありませんからね。

初めての仕事は白人のジャズ・シンガー=ダイアンさんという方のバックバンド。当時銀座にあった「テクニクス銀座」内のホールで行われたライブでした。手帳によると、2月16日の第2外国語の仏語のテスト(まだ、学生でした)の翌日からリハがスタートしたようです。


細かく指定された譜面、難しいコード進行、そしてほぼ全曲にアドリブでのソロ・パートがあり、当時の僕にとってはハイレベルな技術を要求される仕事。

一生懸命に演奏したつもりでしたが、仕事がおわった後、アッサリとクビになりました。年上のメンバーの方に「中野君、得意なことが巧いのはわかるけど、不得意なことも練習したほうが良いよ」と的確なアドバイスを頂きましたが、当然、落ち込みましたよ。

それでもバンド活動と並行しながらですが、82年の秋頃から少しずつジャズ系のアーティストのサポートの仕事が入り始めます。まだ、トラ(エキストラの略。正式メンバーのスケジュールの穴を埋める仕事)ばかりでしたが、銀座のジャズクラブなどでも初めて演奏しました。


翌年(1983年)の暮れにバンドが所属していたレコード会社のプロデューサーの方に、1人のギタリストを紹介されます。尼崎勝司さんという同じレーベルに所属していた、ガット・ギター・プレーヤー。その尼崎さんのライブやレコーディングを正式メンバーとしてサポートさせていただくことになりました。それまでのバンド中だけの世界から、少しずつ外の世界を知ることになるのです。

過去を辿っていくと、全ての点が線でつながっているのだ、と改めて感じます。いろいろな出会いがキッカケで、自分の人生の方向が変わっていくことになるんですね。以降の話はまた後日…。

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それから、別の先輩ミュージシャンからは、一生忘れられない言葉を言われたこともあります。

「演奏するときは絶対に手を抜いてはいけない。誰が聴いているからかわからないでしょ?その演奏で君の評価が決まってしまうこともあるんだよ。」と。

このことは後になって、いろいろな場所で、良くも悪くも実感することになります。ありがたいことですね。

2011年8月14日日曜日

バンド活動は大変、でも面白かった!

1980年に学園祭の為に集まったメンバーで結成された学生バンド「ハングライジ」は、1981年2月から毎月、六本木ピットインで演奏するようになります。それほど多くのお客さんが入ったわけでもありませんが、その当時の六本木には、フラッとライブを観に来てくださるお客さんも多く、何とか続けていくことができたのは幸運でした。

ピットインに出演し始めて嬉しかったことは、この店に出演している他のバンドを無料で観ることができたこと。「ミュージシャンはみんな仲間だ!」ということだったのでしょうか、多くの優秀なプレーヤーの生演奏を聴くことができ、刺激を受けました。

81年の夏には日比谷野外音楽堂で開催された「サマージャズ・フェスティバル」に出演。初めて数千人の前で演奏する機会を得ました。そりゃビビりましたよ、半年前までライブハウスで演奏したことさえなかったんですから。

1番右の背中が私です。

徐々に活動の幅は広がっていきましたが、内心は不安でいっぱいでした。何故なら、既にプロとして活躍している人を含め、他のメンバーは明らかに自分よりも高いレベルだったので、付いていくだけでも必死だったんです。この時期は特に一生懸命に練習したと自分でも思います。

2年後、遂にレコーディング契約を獲得し、1983年の4月21日にファースト・アルバムが発売されました。

ジャケットとチラシ。ちと恥ずかしい写真です。

レコード会社的な視点で言えば、レコードはそれほど売れませんでした。が、個人的には買ってくれた人達が数千人いたことや、テレビやラジオの番組のテーマ曲やBGM、ジングルに使って頂いていたことを、心の中では喜んでいたのです。

いろんなことがありましたが、思い出すのは変なことばかり。

大分の別府で生まれて初めて食べた白いスープの九州ラーメンにビックリしたこと、最初で最後の関西ツアーで車がオーバーヒートして、時速40キロで東名〜名神を何時間も掛けて走ったこと、ライブの日に大きい台風が来てしまって、お客さんが4人しかおらず、しかも店が浸水したこと、などなど…。

83年の年末にはフュージョン系バンドなのをいいことに、渋谷の西武劇場「ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル」と新宿歌舞伎町の「オールナイト・ジャズ’83〜84」の両方に出演する快挙(?)を成し遂げましたが、年が明けると徐々に活動が停滞していきます。「解散する」とか、「脱退する」といった話をした記憶は全く無いのですが、個人的には活動の場を他に移していきました。


まだまだ、プロというにはほど遠い状態でしたが、音楽の世界で生きていくことを決心していくのです。続く・・・ても良いですか?

当時の機材の事を「Equipments」に追加しました。

2011年8月11日木曜日

車中の楽しみ


今日は日帰りで名古屋に行ってきました。猛烈に暑かったですけど、きっと関東も状況は同じだったんでしょうね。

もう数え切れないくらい新幹線に乗っていますが、いまだに新幹線に乗るとワクワクします。名古屋の場合、1時間30分で着いてしまうので、そんないろんな事はできないんですが、前日から何を持って行こうか、車内で何をしようかと考えてしまいます。

で、今日のバッグの主な中身はこんな感じ…。


・iPhone 3GS
これはいつも持って歩いているので、特に何に使うということはありませんが、無いと不安。「Suica」が入る、この革製のケースはとても気に入ってます。(Piel Framaというメーカーのようです)

・充電器
サンヨー製eneloopのiPhone用バッテリーです。震災後に外出時には持って歩くようになりました。2回分充電できるそうです。

・iPad
最近の新幹線は「N700系」だけですけど、Wi-fiでネットが使えるようになりましたね。でも、回線が混んでいるからなのか、とても遅いです。今日も朝にニュース系のサイトを見ただけでバッグに入れてしまいました。持って行ったのは仕事で必要だったからというのもありますけど。電子書籍は何冊か買ってみたんですけど、今のところ自分には合わないかと…。

・時刻表
最近は1人で移動することが多くなり、気分で列車を変更することも多いのです。ですが、今日から夏休みの人も多かったのでしょうか、結構混んでたので、当初指定の列車で往復しました。

・新書(若者殺しの時代/堀井憲一郎)&メガネ
メガネが欠かせなくなりました。新書版の本の文字はギリギリ読めますが、文庫やCDのクレジットは、メガネが無いとアウトです。つらいなぁ。

本は人気ブロガー「Chikirin」さんのサイトにあった、お勧め本を図書館で借りておいたものです。まだ読了してませんが、同世代の著者による、80年代のさまざまな流行や風俗に関する鋭い視点、面白い本です。

・iPod
今回は使いませんでした。僕は「音楽を聴きながら本を読む」ようなマルチタスクには対応できないようです。まわりの音を遮断したい時は、「ギターの音が入っていない音楽」を聴くか、耳栓をします。そうしないと意識がどうしても音楽に引っぱられてしまうからです。

ってなわけで今回は読書をして楽しい時間を過ごしました。

あと、朝の7時50分発の列車だったので、朝は弁当を買って食べました。今日は仕事が昼時にかかっていたので、しっかり食べておこうと思い、「30品目バランス弁当」をチョイス。これおいしくて、しかも駅弁にしては安い(¥850)のでオススメです。



帰りは名古屋駅の地下で山本屋の「味噌煮込みうどん」をお土産に買いました。これとても好きなんですよ〜。冷凍を6食分、大事にちびちび食べようと思ってます。


世間は夏休みモードに突入のようですが、僕は夏休みもボーナスも関係ない仕事を選びましたので、明日からも頑張りますです!

2011年8月7日日曜日

エフェクター・マニアへの道

マニアというほどではないかもしれませんが、10代の頃からギター・サウンドをカラフルに変化させられるエフェクターにとても惹かれていました。今までにいくつ購入してきたでしょうか。70年代当時はエフェクターとは言わず、「アタッチメント」と呼ばれていましたけど。

初めて買ったエフェクターはAce Toneというメーカーの「FM-3」というファズ。音を歪ませる為のもので(「ゆがみ」とも読めますが「ひずみ」と読んでください)、大音量を出さずとも、ロック風のサウンドを得られますし、ちょっと巧くなったような、僕にとっては正に魔法の箱でした。楽器にも流行り廃りがあり、ちょっと前なら「チープで使い物にならない」なんて言われた機種が突然、大人気なんてことがあるので、もう、簡単には処分できないですね。

Roland AF-100 & Ace Tone FM-3

その後、マクソンやグヤトーンといった国産のエフェクターを買っていきましたが、当時欲しかったのは、アメリカのメーカー「MXR」のエフェクター。今はもう3個しか残してありませんが、コーラス、フランジャー、ディストーション+、フェイズ100などを揃えていきました。

3個だけ現在も所有。他も残しとけばよかった…。

当然、購入資金はまたまたバイトです(1979年頃)。友達にデパートなどにマネキン人形や、折りたたみ式の試着室をレンタルする会社の仕事を紹介して貰いました。荷物を運ぶ肉体労働系のバイトでしたが、当時としてはバイト代も高く、自分の都合に合わせて自由に日時を予約できるシステムだったことから、ミュージシャンを目指す人も多数いました。同時期に働いていた人で、実際にプロになった人も数人いましたし、時期は違いますが、山崎まさよし君も、この会社でバイトしていたことがあるそうです。

レンタルしているマネキンを撤去するときは、マネキンが着ている服を脱がせ、しかも、股の部分を持って運ぶものですから、最初はこれが恥ずかしいのです。バイトの先輩に「何、顔赤くしてんだ、お前!」なんてからかわれてました。

仕事はきつかったですけど、バイト仲間と音楽の話をしながらだったので、長く続けられたような気がします。バイト代は即日支払われる「とっぱらい」形式。何日か働いては楽器店に走り、エフェクターを買い漁りました。

当時、BOSSのコンパクトはまだ種類も少なく、僕にとっては、デザインも斬新過ぎて手が出せずにいました。ですが、80年代になって初めて買ったBOSSのコンパクトSD-1にビックリ!それまでの歪み系エフェクターとは一線を画するナチュラルなサウンドだったのです。その後はBOSSのエフェクターを買い漁ることになります。

今、BOSSのエフェクターのデモ・プレーヤーとしての仕事をしているのを不思議に思っています。かつて自分が一つ一つ買い集めたエフェクターを紹介したり、新製品のレビュー記事を執筆するなんてことは、当時は想像もできませんでした。自分が好きだったギター、エフェクターに囲まれて生活することのありがたさ、忘れないようにしたいと思います。

My Guitars」が完結してしまったので、今度は僕が使用してきたアンプやエフェクターなどの機材を時代を追ってご紹介する「Equipments」というページを作りました。機材好きの方は是非ご覧ください。


2011年8月2日火曜日

BOSSエフェクター・セミナー

一昨日の日曜日、7月31日に新潟県長岡市にある楽器店、あぽろん長岡店さんで開催されたエフェクター・セミナーで演奏してきました。当日は土曜日の大雨の影響もあり、少し心配していたのですが、沢山のお客様に来場して頂けました。 皆さんとても熱心に見て頂いているのが伝わり、とても嬉しかったです。来て頂いた皆様に感謝いたします。また、会いましょう!!

たまたま真剣に演奏している時の写真ですね

さて、一応説明させて頂くと、この「BOSS」というのは缶コーヒーやアパレルやスペルが違いますけど、スピーカーが有名なオーディオ・メーカーとは無関係。楽器メーカー=ローランドの子会社の名前であり、ギター関連製品のブランド名なのです。そしてエフェクターとはギターとアンプの間に接続し、さまざまな効果を得ることができる「魔法の箱」のことをそう呼びます。ってご存じですよね?

で、この「BOSSエフェクター・セミナー」を初めて担当させて頂いてからもう20年になります。全国各地で行われたセミナーはレコーダーなど、エフェクター以外のものも含めると何と500回以上。自分でもビックリですし、本当にありがたいことだと思っています。

1990年にスタートした当初、楽器の説明をしながら演奏することは自分にとってはちょっとしたチャレンジでした。 ライブでは口達者な皆さんと一緒のことが多いので、あんまりしゃべらなくても済んでしまうことが多いこともあり、オーディエンスの前で話をするということ自体が、僕の人生の中ではほぼ初めての経験だったのです。最初の頃は心臓はバクバク、演奏はメロメロなんていう日もありました。

これは20年前。たぶん沖縄でのイベントです。

ですが、おかげさまで(?)、今ではすっかり慣れて僕自身がとても楽しんで演奏できるようになりました。そして、来て頂いた方々といろいろな話ができるのも楽器店でのイベントならではの楽しみです。ついでに各地のおいしい食べ物も頂けるのも◎です〜!(長岡ではへぎ蕎麦の店に連れていって頂きました。旨かったです!)

ここ10年位はDVDやネットなどで、僕が演奏しているBOSSのエフェクター・サウンドを気軽に見て頂けるようになったのはとても嬉しいことです。が、生で聴く本物のギターのサウンドは迫力が違うと思います。お近くで開催されるときは是非、聴きに来てくださいね。

Databaseに今までのイベントで使用した主な機材のリストを加えました。