今回は、プロとしての仕事を始めた頃のことを書いてみたいと思います。
初めてギャラを頂いて演奏したのは1982年のことでした。それまでもバンドでのライブでいくらかのお金を貰ったことはありましたし、パーティーなどに呼ばれて演奏すると、ちょっとした小遣い稼ぎにはなりましましたが、これはプロとしての仕事ではありませんからね。
初めての仕事は白人のジャズ・シンガー=ダイアンさんという方のバックバンド。当時銀座にあった「テクニクス銀座」内のホールで行われたライブでした。手帳によると、2月16日の第2外国語の仏語のテスト(まだ、学生でした)の翌日からリハがスタートしたようです。
細かく指定された譜面、難しいコード進行、そしてほぼ全曲にアドリブでのソロ・パートがあり、当時の僕にとってはハイレベルな技術を要求される仕事。
一生懸命に演奏したつもりでしたが、仕事がおわった後、アッサリとクビになりました。年上のメンバーの方に「中野君、得意なことが巧いのはわかるけど、不得意なことも練習したほうが良いよ」と的確なアドバイスを頂きましたが、当然、落ち込みましたよ。
それでもバンド活動と並行しながらですが、82年の秋頃から少しずつジャズ系のアーティストのサポートの仕事が入り始めます。まだ、トラ(エキストラの略。正式メンバーのスケジュールの穴を埋める仕事)ばかりでしたが、銀座のジャズクラブなどでも初めて演奏しました。
翌年(1983年)の暮れにバンドが所属していたレコード会社のプロデューサーの方に、1人のギタリストを紹介されます。尼崎勝司さんという同じレーベルに所属していた、ガット・ギター・プレーヤー。その尼崎さんのライブやレコーディングを正式メンバーとしてサポートさせていただくことになりました。それまでのバンド中だけの世界から、少しずつ外の世界を知ることになるのです。
過去を辿っていくと、全ての点が線でつながっているのだ、と改めて感じます。いろいろな出会いがキッカケで、自分の人生の方向が変わっていくことになるんですね。以降の話はまた後日…。
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それから、別の先輩ミュージシャンからは、一生忘れられない言葉を言われたこともあります。「演奏するときは絶対に手を抜いてはいけない。誰が聴いているからかわからないでしょ?その演奏で君の評価が決まってしまうこともあるんだよ。」と。
このことは後になって、いろいろな場所で、良くも悪くも実感することになります。ありがたいことですね。
お若い時から手帳つけていらっしゃったんですね。
返信削除手帳で昔を振り返るのって、とても楽しいですよね。
私も時々しますよ。
当時は、落ち込んだり、悔しい思いもあったでしょうけど、今となれば、いい経験だったんでしょうね、きっと。
若かりし頃のギターを弾く中野さんの姿も、とても素敵ですね☆
コメント、ありがとう御座います。
返信削除手帳はその時は意識的では無かったのですが、取っておいて良かったです。
記憶とずいぶん違うことも多いのです。
ほろ苦い思い出もいい経験、きっとそうなのだと思います。
お話、とっても興味深いです~。
返信削除点と点が、やがて線に。
日記や手帳の類は長続きした事がないので(恥)、センパイさすがっ!と思います♪
これから続くストーリィも楽しみにしていま~す!
ありがとう御座います!
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